最期の海
佐山 啓郎
1939年(昭和14年)東京生まれ。 1963年法政大学文学部日本文学科卒業。2000年3月東京都立高等学校教員を定年退職。以後創作活動に入る。
作品紹介
ここに掲げた二編「最期の海」と「銃を捨てる」は、実際に日本陸軍の兵士として南方に行き敗戦後に帰還した若者が残した記録を材料にして、私が私なりの構想によって小説として書いたものである。このことをここに記しておきたいと思うのは、それ相当の理由がある。
私の幼いころのおぼろげな記憶の中に、その若者の眼鏡を掛けた優しげな顔とやや太めの声の印象が残っている。どういう名であったか判然としないのだが、彼は私たち家族の住む八畳一間のバラックに毎日のように夕方ごろやってきては、裸電球の下でちゃぶ台を挟んで私の父と向かい合い、父の求めに応じて一生懸命に話し込んでいた。小学校に上がったばかりの私は寝ることもできぬまま、話に熱中する二人の様子にただならぬ雰囲気を感じて、じっと押し黙って若者の帰るときまで待っていた。
この若者は、戦時中に青年学校の教師をしていた父の教え子であり、十九歳で応召し、敗戦後復員したが、父を慕って、焼けトタンで囲われたバラックを尋ねてきたのであった。
それから四十年ほどして私の父の死後、遺品の中に「太平洋戦争」と題された大量の原稿が見つかった。私は、その原稿の存在を薄々知ってはいたが、長い年数が経つうちに、父が出版を果たせぬまま何らかの処分をしたものと思っていたので、初めて原稿そのものを目にして驚いた。それは四百字詰めの原稿用紙に記され、八冊に分け表題をつけて和綴じにされていた。原稿枚数七百枚余に及ぶ大部のものであるが、どういう訳か筆者名が記されていない。しかし私の父が書いたものに違いはなかった。
父はこの原稿を持って出版社に交渉に行ったのだろうか。その間に何カ所もの修正や加筆がなされたようで、それらがそのまま残っている。八十四歳まで生きた父がかなり年数を経てから修正したと思われる万年筆の跡も、私にはわかるのであった。
読んでみると、それは教え子の戦争体験談の口述筆記を基にしながら、父自身の調査研究も加えて太平洋戦争の記録として残そうとしたものであった。私は二重に驚いたが、その内容に関しては、不統一な箇所が散見する未完成な印象で、父の原稿をそのまま出版することには無理があった。私の手に負えないと考える他はなく、出版は諦めざるをえなかった。
だが私としても、その原稿が私の手に残されたということに父の遺志を感じたし、この若者の残した記録を無にしてはならないだろうという気持ちを強く持った。
それから何年かの間どうしたものかと思い出しては悩んだあげく、私はようやく、私自身の関心に基づいて考え直してみた。私の知らない戦争をその内側から、若い一兵士の目と心で捉えた実体験の記録である部分に改めて注目し、私なりの想像と工夫を加え、新たな作品として書いてみたい。そういう形で父の遺稿に込められた願いに応えることは、できるのではないかとも考えた。
戦後七十余年の年月を過ぎた今、太平洋戦争を描いた作品を書く意味があるかと考えたりもしたが、私としてはこの作品に精一杯力を尽くす以外にない気がした。
前世紀半ばの日中戦争乃至は太平洋戦争、その結果としての日本の敗戦という大きな歴史の記憶は、我々日本人の重要な財産であり、それについてはすでに様々な研究や記録が世に出ている。そして歴史や政治の問題として、今もってあの長い戦争の残した問題が、我が国の前途に関わろうとしていることを思わずにはいられない。この気持ちが私の中に一貫してあったのは確かなことである。
私には今でも、毎夜熱心に父のもとに通って自分の軍隊経験を語り尽くそうとした、あの若者の姿や横顔がありありと目に浮かぶ。そして教え子の思いに応えきれなかったのであろう、私の父の無念をも思わずにはいられない。
作者の私としては、この作品を通して、あの戦争の時代を懸命に生き抜いた一人の若者の姿とその思いが、読者に少しでも多く伝えられますようにと念じるのみである。
佐山啓郎